2022年 ウクライナに留まる。

2022年 ウクライナに留まる。

 

しばらく色々なことを考えすぎて、一旦書き出すと疲れてしまい億劫になっていましたが、ブログを久々に再開しようと思います! 2014年から続くウクライナ紛争の問題が今年に入って一段と騒々しくなり、2022年2月24日にロシアのウクライナ全面への侵攻が現実に始まってしまいました。私は家族と共にウクライナに在留する道を選択した訳ですが、この3ヶ月は不安や恐れを感じながらも無事に過ごすことができています。

*確認事項

日本では最近、ロシア語読みのウクライナの都市名表記から、ウクライナ語での発音に近い読みでの表記に変わったようですが、どうしても馴染めず、今まで通り「キエフ」などの旧読み表記で記載しています。そのことに関してはただ私の馴染みという意味以外は特段意味を持ちません。

 

 

ウクライナでの私の記憶を遡ってみる。

 

新型コロナウィルスによる制限あり。2022年は年明けから暗雲立ち込める

 

2021年の秋からコロナ感染者数の増加により、ワクチン未接種者は公共交通機関が基本使用できず、どうしても使用したい場合は毎回72h有効のPCR検査の陰性証明が必要という状態が、2022年の年明け後もしばらく続いていました。2年に渡る引きこもり生活に慣れてしまい、食料品の値上がりや移動制限、寒空の下で更に強まる引きこもり状態。。そんな中で強くなってくるロシア侵攻が危惧される状況。2022年のスタートはどう考えても正常な判断で迅速に行動する気になれない状態でした。

 

スームィは主要な工業などないから、まぁ大丈夫だろう。

ウクライナ・スームィ市のGoogleマップ

私の住むスームィ州はロシア国境に面していますが、主要な工業や大型のインフラ設備のない田舎町。ロシア国境までスームィ市の中心から一番近いコースで約40kmですが、スームィ州に接するロシア国境から侵攻されたとしてもキエフまでの道のりの通過点に過ぎず、ミサイル攻撃や大規模空爆なんて起こるはずがない!と思って楽観視していたのは事実です。今回の件で日本領事館から再三の帰国勧告があったにもかかわらず、帰国を選択しなかったのは2014年のことがあったからであり、ここで少し時間を巻き戻して振り返ってみたいと思います。

 

 

2013-2014年ユーロ・マイダンから続くウクライナの混乱を体感する

 

2013年の「ユーロマイダン」から激化したウクライナの内部分裂

小泉 悠

 

2011年に結婚、ウクライナに移住してからキエフに住んでいた訳ですが、妊娠が発覚したちょうどその頃の2013年の11月に遡ります。

今のウクライナ戦争へと繋がるムーブメントとして、その頃始まりつつあった集会。キエフ中心街に位置するマイダン独立広場では、EUとの連携協定の調印に翳りが見えている状況を危惧する一般市民が集まり始めていました。私の浅い認識だと、2004年に起こった「オレンジ革命」からウクライナはEU加盟への方向性を望む親欧米派の国民が多数いました。

市街地へと続く通りを歩いていると、まだ真冬ほど冷え込んではいない11月の気候の中、ずっと屋外にいる為かスノーウェアを着込んで、意気揚々と大きなウクライナ国旗を持った人々とすれ違ったことが思い出されます。彼らはどうみても一般市民であり、見た目は夫婦づれや友達集団で女性もたくさんその抗議集会に参加していました。広場中央には特設ステージが設けられ、シンガーが歌を歌ったり演説を行ったりしていて、それが平和的な抗議集会だったことは確かです。

 

ユーロ・マイダンの暴動からロシアによるクリミア半島の奪取・ドンバス紛争

ドンバス地方での武力衝突に関するWikipediaのリンク・参照

 

そのように平穏だったマイダン独立広場の抗議集会から暗転して、2014年2月後半から突如、デモ活動が攻撃的になり、反政府と警察との暴力的な衝突へと進んでいきました。よく知る広場で、頭に鍋を被って何処かから引っぺがしてきた鉄の小さな扉を盾にして、バリケードから火炎瓶を投げ込んでいる人々がいる映像を見た時には、もう本当に意味が分からずにただ困惑することしかできませんでした。更にスナイパーによる暴徒化した市民への狙撃事件が起こり、アパートからわずか数キロしか離れていない場所で勃発している状況に呆然とするのみ。臨場感がありすぎると思考が停止してしまうというのは本当です。妊娠中ということもあり、市街地とは反対側の産婦人科と近隣に行くこと以外はほぼ近所で過ごし、その間もキエフ市内のショッピングセンターへの爆破予告などもあり、不安定な中で日々過ごしました。

2014年3月のソチ・パラリンピックの閉会直後、ロシアによるクリミア半島の奪取、さらに続くドンバス地方の紛争は、あれよあれよと状況が緊迫化していき、当時を思い出しても混乱しかない思いで、日本語のニュースも少なく現状が全く理解できていませんでした。

 

『嗅覚』が与える絶望感と悲しみは半端ない

 

映像だけでは伝わらない、人間の大切な感覚があることをまざまざと感じざるを得ない状況を体感することになります。

キエフを去る少し前、2014年の4月にマイダン独立広場駅の地下鉄を降りて、深い地下空間から地下1Fの通路へ到着した時のショックは忘れられません。暴徒化した群衆の過激なデモから一月以上が経過して、広場の中心に位置するオベリスク周辺は片付いていたものの、地下1Fの地下通路には雑多なものが燃えた匂いが至る所にこびり付いており、その匂いが鼻をつきました。ユーロマイダンの本部があった労働組合会館のビルの壁面に残る黒い硝煙の跡、広場を進んだ先にある日本大使館の目の前の道には、まだ黒く焼け焦げた当時の残骸が残っており、その漂う煤の匂いを感じたまま広場で亡くなったデモ参加者遺影を見ていると、その現場を映し出したニュース画像が思い出されて暗く悲しい気分に。。湧き上がる憤りの中に『嗅覚』の作用が加味されたリアルな現場から、臨場感と現実が迫ってくるようで、映像だけを見た時とは違う、凄まじい暗いエネルギーが体に刻み込まれる思いがしました。あの時地下通路で感じた強烈な経験は一生忘れる事はありません。

 

 

憧れのキエフ

ウクライナ・キエフのGoogleマップ

 

望んで住んだ街キエフからこのような形で田舎へ移住するのはとても切なく、決して後味の良いものではありませんでした。今こうして考えると、私の穏やかだったウクライナ生活は、この時にある意味終わってしまったのだと思います。

 

2014年の4月からスームィで過ごした1年

スームィに転居後、6月に無事出産を終えましたが、ウクライナ通貨の大幅な下落と物価上昇、スームィでも始まった夜間に行われる輪番停電時の闇、ドンバス地方の紛争が激化する中、ロシア国境近くに住む叔父からのロシア国境側に集結する装甲車を見た!等の情報もあり、あの当時は今よりずっと危機感を持って、本当にロシアと戦争が始まるのではないかと底知れぬ不安に苛まれていました。成人男性の出国禁止になる戒厳令が発動してしまう可能性も出ており、パプやクラブへ軍関係者が入ってきてその場で軍隊へ徴兵されてしまう。なんて冗談ともつかない話も囁かれていました。まだ30代だった夫はちょっとずつアルコールが増えていき、生まれたばかりの子供の育児も不安な日々。。2014年の9月5日にベラルーシで開催された、宇・露・仏・独のミンスク合意が決裂すればどうなっただろうかと今思い出してもドキドキします。

 

ミンスク議定書に関するWikipediaのリンク・参照

 

その当時日本で、ウクライナ危機がどのような形で報道がされていたのか分かりませんが、私たちを取り巻く環境は徐々に暗澹たる思いに支配されてしまい、ウクライナでの全てを一旦リセットして日本に帰国しなければやっていられない心理状態に陥っていったのでした。

 

 

2019年にウクライナへリターン。

その後ほぼ5年は日本に住んでいた訳ですが、ウクライナでのドンバス地方の紛争はこう着状態のままであることが分かっていた上で、日本での生活で起こった個人的な諸事情があり、これから未来を見据えた生活などを考慮した結果、2019年の11月にウクライナのスームィに戻ってきました。

 

 

その後の新型コロナウィルスによるパンデミック、ウクライナ戦争の始まりへ

                                      2022年2月22日のキエフ、地下鉄のホーム。この数日後、避難者のシェルターとして人が滞在することに。

 

決断するとまた新しい現象が始まり、光が見え出すとまた叩き落とされ、何か悪いことでもしたのだろうか。。と落ち込む日もあります。せっかくのリスタートをウクライナで迎えた数ヶ月後に、新型コロナによるパンデミックが始まり、今度はまさかの戦争。。それでも何か出来ることがあるのではないかと前を向いて考える日々。

 

決断には、責任が付きまとうことは分かっている。

 

恐れずに本音を言うと、昨年からウクライナ国境沿いに集まるつつあったロシア軍の動きも、ドンバス地方の紛争が始まった2014年と同様に、ある種の「脅し」としか考えられず(考えたくもなかった)、新型コロナ感染による検疫措置による移動の制限に加えて、アメリカ大統領のロシア軍侵攻を予想する発言は扇動としか思えなかったのです。それに合わせるかのように、日本領事館からの電話による連日の帰国勧告にも素直に応じる気持ちにはなれませんでした。

また日本へ帰国したところで本当にウクライナとロシアの全面戦争は起こるのだろうか??またもう一度一から日本での生活を始めるって?!2014年の危機の時と同じだったら??との思いを抱えて、帰国か残留かを天秤にかけた時、結論は在留。となった訳です。

今年2月22日に子供のパスポート申請・受け取りでキエフ日本大使館へ出向いた際、今後ロシア侵攻が起こった場合、ロシア国境に面するスームィからの国外への避難や対処法を、万が一に備えて大使館員に伺ったところ、「もうすでに遅いです」とキッパリと言われてしまい、侵攻が起こった場合は日本領事館は助けてはくれない。全ては自己判断でやっていくしかないと腹を括りました。実際はウクライナ在住の日本人向けの航空チケットと、コロナ関連のPCRチェックなどのサポートがあるようです。

世界情勢の「機が熟す」タイミングは一般人には見えないのかも知れません。

どんなことがあっても日本に帰らない!という強い感情がある訳ではなく、ウクライナにこのまま留まり続けたい!という固執するような強い思いもない、ただウクライナに在留を決めただけです。侵攻当時には水道が止まる、停電、WiFiのアクセス不可など短時間のライフラインの乱れがあり、スームィ州全域の警報は相変わらず続いていますが、この2ヶ月は落ち着いています。

 

高画質で素早く伝えられる映像は、人の心に傷を作る

 

ウクライナ国内で起こったことが、高画質で凄惨な画像や映像と共に長い期間ニュースで放映されました。「視覚」による衝撃と心理的影響は凄まじいものがあります。私もロシア侵攻が始まった数週間は、胃が押しつぶされそうな不安からの反動なのか、逆にふわふわした浮遊状態に陥り、人生で初めて「死」をぼんやり考えるという、おかしな興奮状態にあったことは否めません。

ましてや、今、この国で起こっている想像を絶する凄惨な現場の中、全てを体感している人々が多数存在しており、五感全ての感覚がフル動員され、親しんだ居住地域や自宅や家族までもを失っていくという現実が起こっています。その無念さは筆舌に尽くし難く、現在特にドンバス地方での様子は以前と同様に情報が少ないので詳細は分かりかねますが、毎日その犠牲者は増え続けているのです。

こういった他国の状況を知ることは大切だと思いますが、過剰な映像を皆が視聴するテレビで連日繰り返し放映するのは、いかがなものかとの思いもあります。

 

 

こんな状態でも、出来るだけウクライナらしい生活をするのだ。

この数年、あーでもない。こーでもないと大変な年月を過ごしてきましたが、ウクライナの生活で素晴らしいところは何と言っても食生活の楽しさです。春から秋にかけての農作物の美味しさや、素朴で懐かしいお菓子など、私の好みの「ソビエトみ」を感じつつ、旬の食材を頬張ることがどれだけ幸せなことかを移住後に実感し続けてきました。

ここでの食生活を伝える手段として、最初は軽い思いつきでしたが、ずっと憧れだったダーチャを昨年購入したので、そちらの日常もお伝えしていこうと思っています。長くブログを更新していなかったのですが、今後こそ頑張って定期的にお伝えできればと思っております。

 

昨今の世界的な閉塞感ある状況の中で、家庭菜園が流行り出しているということ、ウクライナという国を超えて多くの方に興味を持っていただけると嬉しいです。農作業初心者の私が挑戦するダーチャでの菜園の様子や野菜作りの知識、アイディアや情報を共有できるようになればと思いますので、大変な状況の中でもできることを探して、前向きな気持ちを持って生活していきたいと思います!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

日々の細々とした出来事は、Twitter @Sayaka399で発信しております。

今、ウクライナが大変な状況に陥っており戦争は長期化する様相を呈しています。私自身もいつ巻き込まれてしまうか分からない不安はありますが、なるべく前向きな情報を発信していますので、もしご興味あれば右側のバナーに記載がありますので覗いてみてください。